Shinichi Ono Blog

コップ一杯の言葉

June 15, 2010

ツイッターやブログを書くことのよって起きた大きな変化は、自分の中にいつでも言葉が「詰まっている」という気がすることだ。自分で書こうとするだけでなく、人のつぶやきを読めばそれが、コロン、と自分の中に言葉が注がれる。本を読んだりラジオを聞くことも、言葉の充電だというような気がしてきた。

何かを書こうという意思がいつでも働くから、自分に注がれる言葉をずっと大事に扱うようになったというべきか。いままで笊のようにほとんど受け止めることが無かったと考えると、残念な気持ちにもなる。もしかしたら、今だからこそ受け止めるようになったとも言えるだろうか。

洗ったコップを乾かす時のように逆さに置いてあったのを、ひっくり返してみる。蛇口をひねれば水の変わりに言葉が出てくる。普通のコップで、たいした量を入れることはできないからすぐに溢れ出すし、飲めば一息で終わってしまう。しかし、たったコップ一杯の言葉でも、確かに潤いを感じることができる。

現場としての初音ミク2

生成の現場。多くのクリエイターの力が、初音ミクという架空のアイドルのパーソナリティー生み出し、蓄積されていく。そうして人格は拡張していき、もっと現実的な存在になってくる。

制作者は、自分のモノというより、初音ミクという存在を具現化するために制作に励んでいる。「自分のことを、初音ミクを通して表現しよう」ではなく、「初音ミクの為に、自分にはこれができる」と考えるのではないだろうか。誰かが何かを作っている限り、初音ミクは生き続ける、ということになる。

そういう世界は、とても魅力的に見える。アーティスト=作品という関係性の中で、アーティストは、実のところ束縛されているのではないか?そのように思えることもしばしばある。もちろん0から作品をそしてそれを取り巻くコンテクストを作り出すというのがアーティストの力の見せ所というのもあるが,実際それを実現できるのは、ごく一部の才能溢れる人々に限られるのではないか?ペインティングや彫刻、インスタレーションといったジャンルも、考えようによっては、初音ミクというキャラクターのように、何かを作る上での枠組みと考えられる。もう少し抽象的で自由度は高いかもしれないが・・・。

思うに、これからもっと多くのアーティストが現れてくるようになるだろう。というのも、技術の進歩によって、一昔前であればとても素人ではできなかった様なことが手軽に実現可能で、しかもウェブ上など発表の場にはこと欠かない。作家として生活してゆくというのは、何にせよとても難しいことには変わりないだろうが、プロとアマチュアの垣根が崩れている今、一人の作家と作品にこだわる必要が無くなっている。

そこで注目されるのは創造の「場」ではないだろうか。人々がある意味、無個性的に何かを制作し発表できる場所。刻々と変化を続け過剰な序列がなく誰もが参加できる創造的な「場」。初音ミクを取り巻く様々な作家達の活動を見ると、ファインアートと呼ばれる世界の限られた創造空間に、息苦しさを感じないわけにはいかない。

今まで培われたアートのマーケットや文化がそう易々と壊されることはないのは確かだが,もっと自由でそして誰もが参加できる創造的「場」が生まれるのではないかという期待感を、初音ミクを通して感じた。

現場としての初音ミク1

June 11, 2010

初音ミクを聞いてみた。

架空のアイドルに歌わせることができるソフトウェアによって作られた歌謡曲。その認識のもと初めて聞いたときは、妙な切なさと恐怖に近い思い。引退してしまった、又は若くして死んでしまったアイドルの声のように聞こえてしまった。

が、しかし。

初音ミクというアイドルを中心に曲やビデオがたくさんの人間に作られているというドキュメンタリーを見た時、そういうことではないというのが分かった。その情熱が、そして自由な創作の現場がうらやましく、なおかつ素晴らしいと感じた。

なぜなら、初音ミクは、生成の現場そのままだから。

敷石のルール

June 10, 2010

敷石が敷き詰められた道を歩く時、自分なりのルールを決める。

例えば3つずつ飛ばして進むとか、進行方向と平行の石だけを踏んでいく。できるだけリズミカルに、あっちに飛びこっちに飛び、タイミングがずれると立ち止まる。まわりから見ればなんとも奇妙にうつるかもしれないが、自分の中では確かなルールに添って行動している。

その場所と瞬間に自分を捧げるゲームのようなものだ。過去への憧憬、未来の希望や不安。目的や責任を背負いどこか遠くを眺めるように歩くことが現実といわれる。しかし、その現実は、現在から目を逸らし、あったこと、あるかも知れないことに思いを向ける幻想でしかないだろう。

たとえ道化のように見えようとも、今、この瞬間に存在している敷石のルールによって歩くことが、現実を受容する自分なりの方法だ。多様な模様の上で、その都度ゲームを発明しながら、歩いていく。

レイカーズを観てアートを考える

June 9, 2010

スポーツには興味ないと公言してはばからないのだが、レイカーズのファイナル、第3試合をオールアメリカン”スポーツバー”で見た。

結果レイカーズの勝利で終わり、喜び合う人々の姿を眺め、なかなか楽しめた。ただではすませぬと思い、観察して考えることもいろいろあった。そこで、印象に残ったことをいくつか。

1.  ホイッスルが鳴った後も、決して点は入れさせないというように、飛んできたボールを弾き返したボストン・セルティックスの選手。

勝負には負けられない、絶対に勝つという強い意志に感動。明確なルールが決まっている場合は勝敗が明白で見ているこちらも緊張する。アートの勝敗というのがつけ辛いのは、特定のルールというものを持たないからだろう。もちろん、売れっ子の間では巨大な資本が動きアーティスト達の間で切磋琢磨の争いが日々行われ、販売量やオークションハウスの結果として勝敗が明白になり、資本主義のルールが適用されている。しかしアートの全てはそこにはない。ルールの制定は否応無くそのルールに当てはまらない特定のグループを排除する。現代アートの歴史の一側面は、ルールという名の下に生まれる排他主義への挑戦でもある。

2.  ゲームが行われているコート、その周りで見守る控え選手。更にそれを囲むカメラや放送スタッフ達。スタジアム内の観客。目まぐるしく変わるカメラアングルとそれを指示しているであろう見えない演出スタッフ。ゲームが中断してのコマーシャル。ビールを片手にスクリーンを見ているバーの客達。

プレイヤー達によって行われている試合がその時間のベースとすれば、そこにはたくさんのレイヤーが重ねられているようだ。試合の放送中は、基本的にはスタジアム内の出来事であり一貫性があるが、試合が中断してコマーシャルに入る瞬間などメタレベルへの飛翔のような感覚をもつ。試合のほうが現在進行中の現実としてあるはずなのだが、コマーシャルに入ったとたん、試合が夢の世界なのかと思ってしまう。また試合が続行されれば、コマーシャルが夢となる。さらに自分がいるバーという空間もある。そういうレイヤーのインターアクションが興味深かった。

3.  多用されるリプレイ、スローモーションやレペティション。意外な角度から見えるように書かれた企業の名前。

リプレイやスローモーションは「見せ場」を明確にするとても優れた装置だ。または、凡庸なプレイもそれらの装置を通すことによって「見せ場」と化すのかも知れない。アート作品の中の「見せ場」とは存在しているのだろうか?絵画といった平面作品では、フォーカルポイントを見せ場とするかもしれないが、そう単純なことではないだろう。コンテクストの設定や、観客の知識なども強く影響を及ぼし、逆にリプレイといった装置があれば作為的な「見せ場」を作れるかもしれない。アートの場合そのような装置にも敏感である必要があるし、「それではいけない」と踏み込めない。現在のビジュアルアートといわれるものは、良くも悪くもビジュアルに懐疑的だ。

テレビ自体をあまり見ないせいか、演出のスピードについていけないとも感じた。多用されるグラフィックなどは刺激的で、情報過多の現実を視覚的に見せつけられた。驚かされたのがコマーシャル群。KIA(CGリスのヒップホップ)やBing(メキシカンメロドラマ)のステレオタイプを押し出したもの。コールオブデューティーのCMは老人がとてもセクシュアルな隠喩に充ちた台詞。昔からいわれているマスメディアのヴァイスであろうが、こう観てみると新鮮で衝撃的だった。

などといろいろあるが、また見に行きたい。

緊急事態!

June 8, 2010

最近参加した展示の話。

知人が教えるクラスの一環で、生徒達がキュレイターとなり十数人のアーティストをリサーチすることから始まった。それぞれが展示のコンセプトを考え、 アーティストを選び、ギャラリーの模型を作り、作品を空間に配置した。それから最終的な展示のデザインをギャラリーディレクターが決めるということだっ た。選ばれたデザインの中に、運良く自分の作品も含まれていて、晴れて参加することになった。

ウェブサイトにあった作品の一つをそのまま出すかといわれたが、いわゆる「暇つぶし」で、適当に作ったものであったので、新しい作品を制作。それにあたって、選ばれた生徒によって書かれたステートメントを読んでみたが、まあびっくり。素晴らしいと思った。

(抜粋)In direct relation to the history of Angels Gate Cultural Center in San Pedro, a former military base originally commissioned to protect the harbor and its facilities, Mass Emergencies focuses on artworks that deal with natural and man-made disasters.  Chosen works deal directly with the theme of disaster by addressing issues of entropy, threats and post-disaster militarization. Other works deal more indirectly with the concept thru spirituality, life after death and immortality while simultaneously playing on the religious etymology of “Angels Gate” and its location in “San Pedro.”

Angels Gate Cultural Center(エンジェルスゲートカルチュラルセンター)は、ダウンタウン・ロスアンジェルスから車で約30分の所にあるサンペドロという港町の小高い丘の上にある。もともと、その港を守る軍の施設があった所。現在も同じ敷地内に物々しくレーダーの回る建物が建っている。この展示はその場所の歴史的背景を念頭に置きつつ、Mass Emergency「緊急事態」という名の下自然災害、又は戦争や環境破壊をテーマにしたアート作品を集めた。San PedroにあるAngels Gateということで、キリスト教的な含意も無視できない要素。つまり、「その場所」の歴史、そして神話(Mythology)を土台に生まれたコンセプトであり、個人的に「的を得た」ステートメントだった。生徒参加型という方法も含め、まったく恐れ入りました、素晴らしい、これが「キュレイション」だと感じさせた。

そういうこともあり、僕としては是非その場から自分の作品を生み出したいと思い、歩きその場を感じながらしばらく撮影して回った。それから、あれやこれや、試行錯誤の結果作品を制作することができた。

Angels Gate Matra capture

撮影したものを編集しDVDに焼き、それを自分の体にプロジェクトして、その姿を撮影。とにかく、とても楽しい(いや大変であったのも確か)制作行程であり、何よりキュレイティングというもののあり方を考えさせられたことが何よりも大きかった。明確なコンセプト、コンテクストがコンテントつまり作品にも非常に有益な影響を与えうるというのを深く自分の胸に刻むことができた展示であった。

Tim Hawkinson at Blum & Poe

May 23, 2010

ティム・ホーキンソンのオープニングがあることを当日ぎりぎりで知る。これは逃せないと、早速行ってきた。

おばあさんの”からくり人形”をしばし観察。プラスティックボトルや、スーパーのビニール袋などを利用して作られた動く彫刻。頭が回転し、眼球、耳、指などもくるくる動く。服に使われている紙は目の錯覚を利用して、これまた回る。使用されているのはこの錯覚

この作品、天井から電気をひいているが、そこにモーションセンサーを発見。本当のところ人が近づいたときに動き出すと思われる。しかし人気作家だけに会場は大混雑で、ずっと動きっぱなしだった。静から動への変化や、機械の作動音など聞こえなかったのが残念。また見に行かねば。

なんだか気になったギャラリーの角にちょこんと置かれた彫刻。さりげなくてとてもいい。

見る

April 16, 2010

”見る”ということは、創造的なことだと思います。
アーティストの場合、”表現”ばかりに気を取られがちですが、見て、感応して、そして表現にたどりつくのではないでしょうか。

現代美術は、難解に作られた作品が多くあります。それらは、ただ表面的に眺めるだけでは見過ごしてしまうことをたくさん含んだ、なぞなぞのようなものです。作品の素材、技巧、作られた時代背景、アーティストの生活、受けたであろう影響などを考えながらじっくり見てみることによって、なぞを一つ一つ解いていくことができると思います。そして、ある時ふと、答えが分かる瞬間があります。この瞬間が感動であり、とても気持ちがいい瞬間です。なぞなぞが解けた時の魅惑的な陶酔感と同じような感覚です。

ただ一つ違うのは、美術作品の答えはけっして一つではなく、また、固定されたものでもありません。過ぎゆく時間と共に、刻一刻と変化してゆくものです。さらに答えは一人一人が見つけるもので、なぞなぞ本のように、ページの端に逆さに書かれた解答などはありません。作品の解説や批評も答えを導くためのきっかけに過ぎず、それらを答えとして読むことは、作品を理解する上でとても危険なことだと思います。

先日、Blum & Poeギャラリーで見たリー・ユーファンの絵は、距離をおいて見ると巨大なキャンバスに単色の太い線が描かれただけに見えます。しかし近くに寄りじっくり観察してみると、その線は、絵の具に砂を混ぜたようなテクスチャーをもち、キャンバスの上にぽってりと盛られています。線の軌跡は、画家の指、体の動きをなぞり、見ている側と、とても親密な関係を作りあげ、そこにはいない、画家の身体を確かにその場に感じることができます。

時間をかけ、集中していろいろな角度からゆっくり美術作品と対峙して、見ること。その行為は決して受け身ではなく、作品を共にその場で創リだすことだと思います。

リー・ユーファン@Blum & Poe

壊れてしまうということ

March 29, 2010

“I was afraid that if we showed the fragments, then people would only remember the fragments and not see the whole piece.”

「バラバラの破片を公開した後、人々が元の作品でなく、バラバラの状態を思い出すことしか出来なくなるのが恐かったのです。」

床に叩き付けられ、粉々になった彫刻に関する記事からの抜粋です。2002年にメトロポリタン美術館で起こった事故で、今でも修復が行われています。

この文章を読んだ時、軽い目眩を感じたような気がしました。それは、”取り返しのつかない”という感覚であり、その彫刻が存在した数百年の歴史が”途切れた”ことに対する喪失感であったと思います。

大げさなようでも、一つの芸術作品が壊れるというのは、肉親の死に近いような、とても個人的な経験として、心に刻まれるのではないでしょうか。

ニューヨークタイムスの記事