スポーツには興味ないと公言してはばからないのだが、レイカーズのファイナル、第3試合をオールアメリカン”スポーツバー”で見た。
結果レイカーズの勝利で終わり、喜び合う人々の姿を眺め、なかなか楽しめた。ただではすませぬと思い、観察して考えることもいろいろあった。そこで、印象に残ったことをいくつか。
1. ホイッスルが鳴った後も、決して点は入れさせないというように、飛んできたボールを弾き返したボストン・セルティックスの選手。
勝負には負けられない、絶対に勝つという強い意志に感動。明確なルールが決まっている場合は勝敗が明白で見ているこちらも緊張する。アートの勝敗というのがつけ辛いのは、特定のルールというものを持たないからだろう。もちろん、売れっ子の間では巨大な資本が動きアーティスト達の間で切磋琢磨の争いが日々行われ、販売量やオークションハウスの結果として勝敗が明白になり、資本主義のルールが適用されている。しかしアートの全てはそこにはない。ルールの制定は否応無くそのルールに当てはまらない特定のグループを排除する。現代アートの歴史の一側面は、ルールという名の下に生まれる排他主義への挑戦でもある。
2. ゲームが行われているコート、その周りで見守る控え選手。更にそれを囲むカメラや放送スタッフ達。スタジアム内の観客。目まぐるしく変わるカメラアングルとそれを指示しているであろう見えない演出スタッフ。ゲームが中断してのコマーシャル。ビールを片手にスクリーンを見ているバーの客達。
プレイヤー達によって行われている試合がその時間のベースとすれば、そこにはたくさんのレイヤーが重ねられているようだ。試合の放送中は、基本的にはスタジアム内の出来事であり一貫性があるが、試合が中断してコマーシャルに入る瞬間などメタレベルへの飛翔のような感覚をもつ。試合のほうが現在進行中の現実としてあるはずなのだが、コマーシャルに入ったとたん、試合が夢の世界なのかと思ってしまう。また試合が続行されれば、コマーシャルが夢となる。さらに自分がいるバーという空間もある。そういうレイヤーのインターアクションが興味深かった。
3. 多用されるリプレイ、スローモーションやレペティション。意外な角度から見えるように書かれた企業の名前。
リプレイやスローモーションは「見せ場」を明確にするとても優れた装置だ。または、凡庸なプレイもそれらの装置を通すことによって「見せ場」と化すのかも知れない。アート作品の中の「見せ場」とは存在しているのだろうか?絵画といった平面作品では、フォーカルポイントを見せ場とするかもしれないが、そう単純なことではないだろう。コンテクストの設定や、観客の知識なども強く影響を及ぼし、逆にリプレイといった装置があれば作為的な「見せ場」を作れるかもしれない。アートの場合そのような装置にも敏感である必要があるし、「それではいけない」と踏み込めない。現在のビジュアルアートといわれるものは、良くも悪くもビジュアルに懐疑的だ。
テレビ自体をあまり見ないせいか、演出のスピードについていけないとも感じた。多用されるグラフィックなどは刺激的で、情報過多の現実を視覚的に見せつけられた。驚かされたのがコマーシャル群。KIA(CGリスのヒップホップ)やBing(メキシカンメロドラマ)のステレオタイプを押し出したもの。コールオブデューティーのCMは老人がとてもセクシュアルな隠喩に充ちた台詞。昔からいわれているマスメディアのヴァイスであろうが、こう観てみると新鮮で衝撃的だった。
などといろいろあるが、また見に行きたい。